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別れのあとに残る、三つの物語

返さなかった鍵

戻らなかった人のことを、
忘れずに暮らしていく。

一編を読む

返さなかった鍵

引き出しを開けるたびに、鍵が鳴った。輪に何も付いていない銀色の鍵。彼女が出ていった日、返してと言うのを忘れた僕の部屋の鍵だった。

正確には、忘れたわけじゃない。玄関で靴を履く背中に、鍵、と言えば、本当に終わる気がした。僕はゴミ袋の口を結ぶふりをして、彼女がドアを閉めるのを待った。

三か月後、郵便受けに茶色い封筒が入っていた。住所だけの彼女の字。中には鍵と、小さな紙が一枚。『遅くなってごめん。借りていた本は見つかったら返します』。本なんて返さなくてよかった。僕はそんなものを貸していたことすら忘れていた。

その夜、連絡先を開いて、『届いたよ』と打った。送信ボタンに指を置いたまま、紙をもう一度読んだ。彼女の字は昔から、ん、だけが大きい。仕事で腹を立てた日に置いてくれた『冷蔵庫にプリン』のメモも、最後の一文字だけ妙に元気だった。

『本はいつでもいい』を足して送った。既読がつき、ありがとう、と返ってきた。そこで会話は終わった。僕は鍵を引き出しにしまった。彼女が使っていた鍵が戻れば、胸のどこかが片付くと思っていた。片付いたのは、彼女の側だけだったのかもしれない。

別れた理由を、友達には生活のすれ違いだと言っていた。嘘ではない。でも、週末に何を食べるか聞かれても、何でもいい、と答えたこと。話の途中でスマホを見たこと。彼女が静かになったのを、疲れているだけだと決めたこと。説明するのが面倒で、僕はいつもその一言にまとめた。

冬が来て、部屋を移ることになった。通勤時間を短くするためだった。段ボールを組み立てながら、彼女が嫌っていたこの部屋の寒さを思い出した。窓際で朝食を食べると、片方の足だけ冷える。僕は平気だった。平気な方の人間は、困っている人間の声を聞き逃す。

退去の日、管理会社の人が鍵を数えた。『三本ですね』。僕はうなずいた。引き出しに半年入れていた鍵も、その人の手の中にあった。誰が使ったものかは分からない顔で、束を封筒に入れた。

新しい部屋では、机を窓から離した。カーテンを買う時、前の部屋より少し厚いものを選んだ。彼女はもう来ないのに。そんなことをしている自分を、未練がましいと思った。けれど、覚えたことまで捨てなければいけないとは、思えなかった。

春に、本が届いた。よく乾いたタオルと同じ匂いのする文庫本だった。挟まっていた紙には『引っ越したんだね。住所教えてくれてありがとう』。本の間に僕が挟んだままだった、映画の半券もあった。二人で観た映画の結末は、もう思い出せなかった。

僕は礼を送り、それから一行、何度も書き直した。『寒い部屋で、ずっと我慢させてごめん』。それを、もっと広い意味にしたくなった。寂しくさせて、とか、気づけなくて、とか。でも大きな言葉にすると、また何でもいいと同じになる気がした。僕が本当に覚えていた、片方の足のことを書いた。

翌朝、『そこ覚えてたんだ』と返ってきた。次の言葉は来なかった。僕も何も送らなかった。許してもらえたのかは分からない。もう一度会いたいと言えばよかったのかも、分からない。

週末、友達が新居に来た。窓際に座ろうとしたので、そっちは足が冷える、と僕は言った。友達は椅子を引き寄せて、そうなんだ、と笑った。

湯を沸かしながら、空になった引き出しを見た。鍵はない。半券を挟んだ本は、棚に置いてある。返ってきたものと、戻らなかったもの。その両方を持って、僕はここで暮らしていく。